先日、アンで茶道の体験会を開催しました。やっぱ、いいですね。深い。
本を読んで分かったつもりになるのと違うというか別モノで、実体験から得るものって、本当に素晴らしい。
例えるなら、本で得ることは、スポイトで水を吸うかのよう、実体験は、スポンジ全体で水を吸うかのような違いというか。
かつて白人がネイティブアメリカンを制していった時代に、ある長老が「白人は、本で熊や鹿を見て、知ったようになっている。
だが本当の熊や鹿は、森の中で不意に対峙したときの周りの有り様や自身の心の内まで含めて、初めてわかる。木々間にうっすら差し込む陽光、かすかに肌を撫でる風、吐かれる白い息づかいの音、踏みしめる落ち葉の音、ピンと張りつめた緊迫感など・・・」と。
何かを知る、ということは、何かだけではなくて、その周りを感じるということ。
そして、そのすべてに対しての自身の反応も含めて、丸ごと意識して感じて、捉えてみること。
これに対して、現代科学の細分化して理解しようとするアプローチは、ある断面・現象だけを捉えて全体を知ったつもりになってしまうところの限界なのだと思います。
チャーハンのように、一つ一つの具材が何なのかを知ってそれぞれを味わったとしても、スプーンですくって丸ごと食べてみないと味わいはわからない。カレーのように溶け合ってるものなら、なおさら。
人に対しても、物事に対しても、分析的にならずに、まずは丸飲みして、感じて、触れて、受け入れてみることから、本当にわかることがあるように思います。
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今回の茶道の体験会の掛け軸は、
「白珪尚可磨(はっけい なおみがくべし)」。
茶会では、その日のテーマが亭主によって軸であらわされます。
「白珪は白く綺麗な完璧な玉であるが、完璧と思っても、さらに磨きをかけるべし」という意味。
自身も人生もどんなことでも完成はない(完成したと思ったら成長は止まる)、といった終わりなき精進の大切さ、「道」の奥深さを改めて感じました。
「未完の美」。
ときおり思い出す好きな言葉を、また思い出しました。
みなさんも、和を体験する機会を、ぜひつくられてみてはどうでしょう?
また今度アンで開催する機会に、ご連絡が欲しい方はご連絡ください。ご紹介も歓迎します。